「AIのべりすと」に「花咲かじじい」を与えてみた

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前回の記事に引き続き、今回も「AIのべりすと」というサイトで遊んでみたという内容になります。

今回は、記事題の通り「花咲かじじい」の本文を青空文庫で入手し、それを丸々与えて、その続きを書かせてみました。

というわけで、できあがった作品が以下の文章です。黄色マーカーの部分は原文です。つまり、マーカーが切れているところからが、AIのべりすとの作文です。

よって、花咲かじじいの話を覚えている人は、黄色の部分は全てすっ飛ばして読んでもらっても構いません。また、黄色がチカチカして読みづらいという方は、まずココから青空文庫に飛んでもらって読んでいただいた方がいいかもしれません。

花咲かじじい     楠山正雄&AIのべりすと


     一

 むかし、むかし、あるところに、おじいさんとおばあさんがありました。
 正直な、人のいいおじいさんとおばあさんどうしでしたけれど、子どもがないので、飼犬の白を、ほんとうの子どものようにかわいがっていました。白も、おじいさんとおばあさんに、それはよくなついていました。
 すると、おとなりにも、おじいさんとおばあさんがありました。このほうは、いけない、欲ばりのおじいさんとおばあさんでした。ですから、おとなりの白をにくらしがって、きたならしがって、いつもいじのわるいことばかりしていました。
 ある日、正直おじいさんが、いつものようにくわをかついで、畑をほりかえしていますと、白も一緒についてきて、そこらをくんくんかぎまわっていましたが、ふと、おじいさんのすそをくわえて、畑のすみの、大きなえのきの木の下までつれて行って、前足で土をかき立てながら、
   「ここほれ、ワン、ワン。
    ここほれ、ワン、ワン」
となきました。
「なんだな、なんだな」
と、おじいさんはいいながら、くわを入れてみますと、かちりと音がして、穴のそこできらきら光るものがありました。ずんずんほって行くと、小判がたくさん、出てきました。おじいさんはびっくりして、大きな声でおばあさんをよびたてて、えんやら、えんやら、小判をうちのなかへはこび込みました。
 正直なおじいさんとおばあさんは、きゅうにお金持ちになりました。


     二

 すると、おとなりの欲ばりおじいさんが、それをきいてたいへんうらやましがって、さっそく白をかりにきました。正直おじいさんは、人がいいものですから、うっかり白をかしてやりますと、欲ばりおじいさんは、いやがる白の首になわをつけて、ぐんぐん、畑のほうへひっぱって行きました。
「おれの畑にも小判がうまっているはずだ。さあ、どこだ、どこだ」
といいながら、よけいつよくひっぱりますと、白は苦しがって、やたらに、そこらの土をひっかきました。欲ばりおじいさんは、
「うん、ここか。しめたぞ、しめたぞ」
といいながら、ほりはじめましたが、ほっても、ほっても出てくるものは、石ころやかわらのかけらばかりでした。それでもかまわず、やたらにほって行きますと、ぷんとくさいにおいがして、きたないものが、うじゃうじゃ、出てきました。欲ばりおじいさんは、「くさい」とさけんで、鼻をおさえました。そうして、腹立ちまぎれに、いきなりくわをふり上げて、白のあたまから打ちおろしますと、かわいそうに、白はひと声、「きゃん」とないたなり、死んでしまいました。
 正直おじいさんとおばあさんは、あとでどんなにかなしがったでしょう。けれども死んでしまったものはしかたがありませんから、涙をこぼしながら、白の死骸を引きとって、お庭のすみに穴をほって、ていねいにうずめてやって、お墓の代りにちいさいまつの木を一本、その上にうえました。するとそのまつが、みるみるそだって行って、やがてりっぱな大木になりました。
「これは白の形見(かたみ)だ」
 こうおじいさんはいって、そのまつを切って、うすをこしらえました。そうして、
「白はおもちがすきだったから」
といって、うすのなかにお米を入れて、おばあさんとふたりで、
「ぺんたらこっこ、ぺんたらこっこ」
と、つきはじめますと、ふしぎなことには、いくらついてもついても、あとからあとから、お米がふえて、みるみるうすにあふれて、そとにこぼれ出して、やがて、台所いっぱいお米になってしまいました。


      三

 するとこんども、おとなりの欲ばりおじいさんとおばあさんがそれを知ってうらやましがって、またずうずうしくうすをかりにきました。人のいいおじいさんとおばあさんは、こんどもうっかりうすをかしてやりました。
 うすをかりるとさっそく、欲ばりおじいさんは、うすのなかにお米を入れて、おばあさんをあいてに、
「ぺんたらこっこ、ぺんたらこっこ」
と、つきはじめましたが、どうしてお米がわき出すどころか、こんどもぷんといやなにおいがして、なかからうじゃうじゃ、きたないものが出てきて、うすにあふれて、そとにこぼれ出して、やがて、台所いっぱい、きたないものだらけになりました。
 欲ばりおじいさんは、またかんしゃくをおこして、うすをたたきこわして、薪にしてもしてしまいました。
 正直おじいさんは、うすを返してもらいに行きますと、灰になっていましたから、びっくりしました。でも、もしてしまったものはしかたがありませんから、がっかりしながら、ざるのなかに、のこった灰をかきあつめて、しおしおうちへ帰りました。
「おばあさん、白のまつの木が、灰になってしまったよ」
 こういっておじいさんは、お庭のすみの白のお墓のところまで、灰をかかえて行ってまきますと、どこからか、すうすうあたたかい風が吹いてきて、ぱっと、灰をお庭いっぱいに吹きちらしました。するとどうでしょう、そこらに枯れ木のまま立っていたうめの木や、さくらの木が、灰をかぶると、みるみるそれが花になって、よそはまだ冬のさなかなのに、おじいさんのお庭ばかりは、すっかり春げしきになってしまいました。
 おじいさんは、手をたたいてよろこびました。
「これはおもしろい。ついでに、いっそ、ほうぼうの木に花を咲かせてやりましょう」
 そこで、おじいさんは、ざるにのこった灰をかかえて、
「花咲かじじい、花咲かじじい、日本一の花咲かじじい、枯れ木に花を咲かせましょう」
と、往来をよんであるきました。
 すると、むこうから殿さまが、馬にのって、おおぜい家来をつれて、狩(かり)から帰ってきました。
 殿さまは、おじいさんをよんで、
「ほう、めずらしいじじいだ。ではそこのさくらの枯れ木に、花を咲かせて見せよ」
といいつけました。おじいさんは、さっそくざるをかかえて、さくらの木に上がって、
   「金のさくら、さらさら。
    銀のさくら、さらさら」
といいながら、灰をつかんでふりまきますと、みるみる花が咲き出して、やがていちめん、さくらの花ざかりになりました。殿さまはびっくりして、
「これはみごとだ。これはふしぎだ」
といって、おじいさんをほめて、たくさんにごほうびをくださいました。
 するとまた、おとなりの欲ばりおじいさんが、それをきいて、うらやましがって、のこっている灰をかきあつめてざるに入れて、正直おじいさんのまねをして、
「花咲かじじい、花咲かじじい、日本一の花咲かじじい、枯れ木に花を咲かせましょう」
と、往来をどなってあるきました。
 するとこんども、殿さまがとおりかかって、
「こないだの花咲かじじいがきたな。また花を咲かせて見せよ」
といいました。欲ばりおじいさんは、とくいらしい顔をしながら、灰を入れたざるをかかえて、さくらの木に上がって、おなじように、
   「金のさくら、さらさら。
    銀のさくら、さらさら」
ととなえながら、やたらに灰をふりまきましたが、いっこうに花は咲きません。するうち、どっとひどい風が吹いてきて、灰は遠慮なしに四方八方へ、ばらばら、ばらばらちって、殿さまやご家来の目や鼻のなかへはいりました。そこでもここでも、目をこするやら、くしゃみをするやら、あたまの毛をはらうやら、たいへんなさわぎになりました。殿さまはたいそうお腹立ちになって、
「にせものの花咲かじじいにちがいない。ふとどきなやつだ」
といって、欲ばりおじいさんを、しばらせてしまいました。おじいさんは、「ごめんなさい。ごめんなさい」といいましたが、とうとう牢屋へつれて行かれました。それから三年たちました。するとある日のこと、殿さまが、牢屋の戸をあけさせていいました。
「おい、欲張りじじい。おまえの灰のおかげで、わが家の災難がなおったぞ。おかげで、わしはすっかり元気になった。だから今日は、おまえを釈放しよう。そのかわり、これからは正直一途になれよ」
欲ばりおじいさんは、うれしくて、ただもう涙が出てきました。そして、正直おじいさんといっしょに、毎日畑仕事に出て働きました。こうして、このふたりのおじいさんは、いつまでも仲よく暮らしましたとさ。
――おしまい――

なんと、勝手にすごい早さで終わらせてきやがりました。

しかし、「おまえの灰のおかげで、わが家の災難がなおった」の部分は、いくらなんでももう少し詳しく聞かせてもらわないと意味がよくわからないような気がします。

そしてなにより、これではあまりに短すぎてつまらないです。もっと長いものが読みたかったので、「おしまい」はいったん消させてもらって、さらには「いつまでも仲よく暮らしましたとさ。」のあとにわたしが勝手に「ところが、」と書いて、強制的に続きを書かせてみました。すると、こうなりました。黄色マーカーの箇所はさっきまでと同じで、青マーカーの箇所はわたしの作文です。

(前略)それから三年たちました。するとある日のこと、殿さまが、牢屋の戸をあけさせていいました。
「おい、欲張りじじい。おまえの灰のおかげで、わが家の災難がなおったぞ。おかげで、わしはすっかり元気になった。だから今日は、おまえを釈放しよう。そのかわり、これからは正直一途になれよ」
欲ばりおじいさんは、うれしくて、ただもう涙が出てきました。そして、正直おじいさんといっしょに、毎日畑仕事に出て働きました。こうして、このふたりのおじいさんは、いつまでも仲よく暮らしましたとさ。ところが、いつまでたっても、まだ二月ですから、梅はつぼみのまま、桜はぜんぜん咲きませんでした。
〔教訓〕 正直はよいことだ。しかし、正直ということばは、うそつきよりわるいような気がするので、あまり使わないほうがいい。

こんな壊れた作文をしてきました。勝手に〔教訓〕とか書いていますが、それも意味がわかりません。「正直」はいいけど「正直ということば」は使わない方がいいらしいです。

とはいえ実はわたしは意味不明性の強度が高いものをすこぶる好むので、面白さとしては別にいいのですが、問題は文章の長さです。もう少し長く続けてほしかったのに、またしても、こんなに短く閉じられてしまいました。

どうしてこうなってしまうのでしょうか。もう少し作戦を立ててみましょう。

まず、おそらく「いつまでも仲よくくらしましたとさ」の「とさ」という語尾が、《物語の終わり感》が強いような気がします。よって、これを削除してみます。

さらに、わたしの作文が「ところが、」しか無かったせいで梅の話に話題をそらされてしまったので、それを許さないために「ところが、十年経ったある日、元欲張りじいさんは」までわたしが作文して、続きを書かせてみました。すると、こうなりました。

(前略)そして、正直おじいさんといっしょに、毎日畑仕事に出て働きました。こうして、このふたりのおじいさんは、いつまでも仲よく暮らしました。ところが、十年経ったある日、元欲張りじいさんは、ひとりごとを言いながら、
「ああ、おれは、あの時、正直じいさんのまねなんかしなければよかった。いまでも、あんなことをした自分が、口惜しい」
正直おじいさんは、これを聞くと、大へんおこって、「何をいうのだ。人のまねばかりしているから、そうなるんだ。人よりすぐれたことが一つもないから、そんなことをいうんだよ」
と、たしなめました。すると、元欲ばりじいさんは泣きながら、
「だってほんとうなんだもの。おれは、花咲かじじいがうらやましかった。それで真似をしたのだが、やっぱり、だめだった。……」
正直じいさんは、それを聞いて、
「何をいってるんだね。ぼくは、花の好きなきみが、うらやましかったよ。いつも楽しそうで、いい気持でいるようだったもの」
といいました。すると元欲ばりじいさんは、また泣き出しました。
「そうだ。わたしは、いつもいい気持ちでいた。しかし、きみのように、心の底まで明るくはなかった」こう言って、もとの正直じいさんにむかって両手をつくと、頭を地にすりつけてあやまりました。正直じいさんは、これを見て笑いましたが、そのとき、またまた思いだしていました。それは、自分も昔、やはりこんなふうにして、人にあやまったことがあるということを。
正直じいさんは、これを思うと、ちょっと胸がいたみました。
「ああ、どうしたら、この人をゆるしてあげられるかしら」
正直じいさんは、しばらく考えておりました。けれども、どうしてもよい方法はありません。そこで、ただ、やさしく相手の肩に手をかけて、
「あなた、気になさらないほうがようございますよ」といっただけでした。
それからというもの、このふたりは、いつでもいっしょに仕事をするようになりました。ところが、二百年たつうちに、正直じいさんのほうが、だんだん貧乏になって参りました。というのは、欲ばりじいさんが、いくらお金をもうけても、それをみんなつかってしまうのです。そこで、正直じいさんが、
「ねえ、あなた。もうそろそろ、やめにしませんか。これ以上つづけてみても、きっと無駄ですよ」
と、いったことがありました。すると欲ばりじいさんは、「なあに大丈夫だよ。今度こそうまく行く」と、はっきり返事をしました。そして、そのとおりになりました。すると正直じいさんは、また心配になりました。そこで、
「もう、やめたほうがよくはないでしょうか。私は、あなたの財産を、半分もらわなくっちゃならないんですよ」といいました。
欲ばりじいさんは、たいへんおこって、
「なんというひどいことをいうのだろう。おまえは、おれのいうことがきけないのか」
といいました。
正直じいさんも、負けずに言い返します。
「そうじゃないんです。私のいうことは、なんでもきいてくださると約束なすったじゃありませんか。ですから、私のために、すこし貯金をしてください。そうすれば、あとのお金は、全部おあげします。私が、もらいすぎているぐらいなんですから」
欲ばりじいさんは、とてもおこってしまいました。
「いらいらさせる男だなあ、

まだまだ続けようと思えば続くのでしょうが、この中途半端な台詞の途中というタイミングで、わたしの意志で中断しました。

途中でさらっと「二百年たつうちに」という大胆な時間経過を導入してきたのはちょっと笑いましたが、ひたすら二人のじいさんがとりとめも無い話をし続ける展開になってしまい、最初はそこそこ楽しく読んでいられましたが、だんだん飽きてきました。

そもそも、この二人が一緒に暮らしているかのような設定がおかしいように思えます。それぞれのじいさんは妻帯者だったはずです。二人のおばあさんはどこに行ったというのでしょう。二百年の間に、まさかじいさんどうしで結婚したというのでしょうか。

ましてや、財産を半分あげることになっているとか、今度こそうまくいくとか、言っていることの設定が次から次へとさっぱりわからないことばかりです。

そこでいったん大幅に全部削除して、もう一度やり直させてみました。すると、こうなりました。

こうして、このふたりのおじいさんは、いつまでも仲よく暮らしました。ところが、十年経ったある日、元欲張りじいさんは、山のなかで猟をしていたとき鉄砲にあたって死んでしまいました。それであとに残った正直おじいさんは、ひとりぼっちになってしまいました。
そのときです。風が吹いてきて、死んだ元欲ばりじいさんのからだをさらいました。するとどうでしょう、灰だらけだったからだが、みるまに白くなって、まっ白な着物を着たようになりました。それを見て正直おじいさんは、
「ああ、これこそ、あのほしかった金と銀じゃ。これで当分食うものはできるわい」
と思いました。

やり直させてみると、元欲張りじいさんの方は即死してしまいました。その展開はまあいいのですが、気になることがいくつかあります。

1つ目は、正直おじいさんの口調です。なんだか正直じいさんは、少し悪い人になってしまったようです。個人的には、物語の根本的な設定として、正直おじいさんは、分かりやすく、いい人で貫き通してほしいような気がします。ただ、まだ台詞が1つだけなので、これはもう少し泳がせてみたいと思います。

2つ目は、「灰だらけだったからだが」という記述です。なぜ「枯れ木に花を咲かせましょう」のパフォーマンスをやっていた頃から確実に十年以上経っている元欲張りじいさんの「からだ」がこのときも「灰だらけだった」のでしょうか。意味がわかりません。

3つ目は、「ああ、これこそ、あのほしかった金と銀じゃ」の「これ」とは何なのかということです。普通に読めばおそらく「おじいさん」です。「おじいさん」イコール「金と銀」というのは、これまた意味がわかりません。

そして、最も気になることは別にありまして、それは「それであとに残った正直おじいさんは、ひとりぼっちになってしまいました」という記述です。なぜなのかはわかりませんが、やはり「AIのべりすと」は、おばあさんの存在を完全に忘却してしまったようなのです。そこで、わたしがこのタイミングで介入することにしてみました。シンプルに「正直じいさんは、おばあさんを呼んで、こう言いました。」と書き加えて、その続きをAIに書かせてみました。その結果がこちらです。

こうして、このふたりのおじいさんは、いつまでも仲よく暮らしました。ところが、十年経ったある日、元欲張りじいさんは、山のなかで猟をしていたとき鉄砲にあたって死んでしまいました。それであとに残った正直おじいさんは、ひとりぼっちになってしまいました。
そのときです。風が吹いてきて、死んだ元欲ばりじいさんのからだをさらいました。するとどうでしょう、灰だらけだったからだが、みるまに白くなって、まっ白な着物を着たようになりました。それを見て正直おじいさんは、
「ああ、これこそ、あのほしかった金と銀じゃ。これで当分食うものはできるわい」
と思いました。正直じいさんは、おばあさんを呼んで、こう言いました。「おれはこのごろ、なんにも食べておらんのだ。しかし、たったひとつほしいものがある。それは、お隣のほしかった金銀だ。それを今、見つけたんだ。どうか、おれのために祈ってくれないか」
「はい、あなた様のためなら、どんなことでもいたします」
「ありがとう。ではちょっと行って来る」
正直じいさんは、馬に乗って出かけました。そして、野原をとおって、向こうの山のいただきに行って見ると、そこに大きなほし草があって、それがまるで白い雲のように風にゆれていました。「ああ、あれだ」
と正直じいさんは思いました。そして馬をおりて、一生けん命走って、やっとのことでほし草のところまでゆきました。
すると、ほし草は、かすかにゆらいでいて、手でもふれそうなくらいでした。そこで正直じいさんは、手をさし出してつかまえようとしました。けれどもすべってころびました。それでもあきらめずに、何べんも挑戦してみましたが、どうしてもうまくいきません。そのうちに日が暮れて、夜になって、あたりがだんだん暗くなってきました。
「ああ、困ったな。これはとてもだめかもしれない」
正直じいさんは、泣きだしそうになりました。
すると、どこからともなく、声がきこえてきました。「もし、そんなになさけぶかいのなら、一つわたしの言うことをきいていただけませんか」
「なんだね?」
「じつは、わたしは、あなたに、ある仕事をしてほしいのです。つまり、あなたに、神さまのお使いになっていただいて、あなたのほうにあるものをこちらへ持って来ていただきたいのですが……」
正直じいさんは、たいへんありがたく思って、その仕事を引きうけることにいたしました。
「よろしい。やってあげよう」
「ありがとうございます。それではこれから、わたしの言うとおりになさってください。まず、ここに火をつけて、小さなたきぎをたくさん集めてください。それから、このなかに、水を入れて煮え立たせて下さい。それから、このほし草を、ここに入れてしばらくのあいだ待っていて下さい。それからまた、こんどは、この湯気のなかへ、何かほかの物を、投げこんでみて下さい」
正直じいさんは、言われたようにいたしました。するとまもなく、ほし草が煙をあげて燃えはじめました。
「これでよし」と、神様はつぶやきました。「あとは待つばかりだ」
正直じいさんも、「うん」とうなずきました。
ところが、いつまでたっても、何もおこりませんでした。もうそろそろ、ほし草が灰になろうかというとき、正直じいさんは、たまらなくなってきました。
「いったい、どうしたんです? まだ、ほかにやることがあるんでしょうか?」
と、正直じいさんはききました。
「いえ、もうこれだけです。あとは何もありません。もうじきです。きっともうすぐですから、がんばってお待ちなさい」
正直じいさんは、ほんとうに心配になってきました。
「おい、どうしたんだい? どうしたっていうんだよ?」
ところが、いくら聞いても返事がないのです。正直じいさんは、とうとうがまんができなくて、自分で見に行くことに決めました。
そして、ほし草の灰の中から出てみると、そこはもう野原ではありませんでした。町の中にいました。
「どうしたんだろう! ここはどこだろう!」と、正直じいさんは思いました。
そして、あたりを見まわしました。すると、ちょうどそのときです。
「あーっ、よく来てくれた」と、高い空のうえから声が聞こえました。「わしは、おまえが来るのを待っていたのだ。さあ、早く帰ってくれ」
正直じいさんは、びっくりしてしまいました。
「あなたは、いったい誰ですか?」と、正直じいさんは尋ねました。
「わたしは、あなた方のいう、神という者だ」と、空の上から答えがありました。「だから、今すぐに帰ってくれ。でないと、おまえの命はないぞ」
正直じいさんは、たいへんあわてました。そして、馬に乗ってかけ出そうとしました。すると、そのとたんに、馬が死んでしまいました。そこで、正直じいさんは、地面に倒れてしまいました。
正直じいさんは泣きながら起きあがりました。そして、町の人たちに、「助けてくれ」と言いました。けれども、だれ一人として、相手にしてくれません。
そのうちに、日が暮れてしまって、あたりが暗くなりました。
正直じいさんは、また泣いて言いました。
「ああ、なんということだ。おれには帰る家もない。食べるものもなくなった。おお、神さま。どうしてこんなことになったんでしょう」しかし、神さまは、やっぱり何にも言って下さらないのです。
そこで、正直じいさんは、泣きながら歩きつづけました。
すると、夜なかごろになって、やっと一軒の家を見つけました。正直じいさんは、その家の戸を叩きました。すると、中から出て来たのは、一人のおばあさんでした。
正直じいさんは、泣きじゃくりながら申しました。「ああ、わたしはもうだめです。わたしを助けて下さい」
すると、おばあさんは、ちょっと考えてから、こう言いました。「それは大変ですね。でもね、あなたのような人は、ほかにもたくさんいますよ。みんな、そうやって助けを求めているんですよ」
正直じいさんは、たいへんありがたく思って、「ありがとうございます。では、一つお願いしたいことがあるんですが」と、いいました。
「はい、なんでしょう?」
「わたしを、あなたの息子にして下さい」
「まあ、そんなことですか。よろしいですよ」
こうして、正直じいさんは、新しい家族に迎えられて、しあわせにくらしましたとさ。
(明治四十一年三月十五日号)
〔解説〕 正直じいさんは、有名な童話の主人公だが、この話の成立については、いろいろと議論がある。
正直じいさんというのは、じつは架空の人物で、作者であるグリム兄弟の創作によるとされている説もあれば、ドイツの民謡が元になっているという説もあり、また、ある国の昔話をもとにして作ったという説もある。とにかく、この話は、グリム兄弟以前にすでにあったものであることは、まちがいないようである。
グリム兄弟は、当時ドイツに住んでいた牧師の子で、

謎に始まった〔解説〕の途中でまたしても、「フリーアカウントの利用上限に達しました。180分後にまたお試しください。」という文字が出てしまい、文の続きを書いてもらうことができなくなってしまいました。しかし、不幸中の幸いと言いましょうか、とりあえず物語の部分は完結したようなので、よかったです。誰も頼んでいないのに書きかけた謎の〔解説〕の部分は100%インチキなので、続きは読まなくていいと思います。ちなみにグリム兄弟の父は法律家です。

とはいえ、完結した物語の部分でさえも、ところどころつじつまが合わない、実に怖い文章ができあがってしまったような気がします。

例えば、神様の設定はどうでしょう。「山のいただき」でどこからともなく聞こえて来た声の主は、始めは台詞から察するに神様ではないように思えましたが、いつの間にか「『これでよし』と、神様はつぶやきました」とあるので側にいる設定になっており、そうかと思えば、やはりその後空の上から神様に話しかけられる、といった具合で、神の立ち位置というか在り方が大幅に揺れています。もしかすると日本の神道的な多神を暗示するために意図的にわざと間違っているのかもしれませんが、一般読者的にはその説明では少し苦しいような気がします。

そして、舞台の設定はどうでしょう。「野原」はあくまでも山に行く際に通過しただけであり、おじいさんは「山のいただき」にいるはずなのに、後半に「そこはもう野原ではありませんでした」という記述があるのもおかしいです。「山のいただき」で「干し草」を見つけて馬を下りて走った結果辿り着いた場所もやはりまた「野原」だったということでしょうか。少し変な気がします。また、細かい部分では、目の前にあるはずの場所を「自分で見に行くことに決めました」という箇所も、何を言っているのかわからない気がします。

もっと不思議なのは、おじいさんが山へ来た目的が完全に消滅してしまうことです。「ではちょっと行って来る」と言って自らの意志で訪れた山のいただきで「干し草」を見つけ「ああ、あれだ」と思ったあと、すべって転んだりしながらも、なんども「干し草」をつかもうとしていたおじいさんは、間違いなく自分で何か目的があって干し草の元まで来たはずです。それなのに、途中で神の願いに答える展開になったあと、いつの間にか、おじいさん本人の目的は元々無かったかのようにさっぱり明かされないまま物語は終わってしまうのです。なんですか、これは。

もしかするとこの透明な展開が、少年の日に自ら抱いた夢や目標はやがて消えていき結局大人になると他から与えられた仕事をこなすばかりという例の人生のありがちな展開を暗示しているのかもしれませんが、そうであっても、この文章はご存じ「花咲かじじい」なのですから、ちょっと一般大衆向きとしては少し読みづらいような気がします。干し草は単なるマクガフィンでしかないということなのでしょうか。

さらには、よく見ると連続で日が暮れているのがシンプルにひどいです。このAIは日を暮れさせるのが好きなのかもしれませんが、さすがに暮れ過ぎです。さっき暮れたばかりの場合はできれば暮れないでほしいです。これでさえ何かの寓意を読み取るべきなのでしょうか。

そして神様の台詞はヤバすぎます。「わしは、おまえが来るのを待っていたのだ。さあ、早く帰ってくれ」からして相当ぶっ飛んでいますし、「わたしは、あなた方のいう、神という者だ/だから、今すぐに帰ってくれ。でないと、おまえの命はないぞ」の「だから」の使い方も凄まじいです。これもまた、神の厳しさや理不尽さを描いているというのでしょうか。

そういえば、前回の話も神社が出てきて神が出てくる展開でした。このAIは、安易に神を登場させすぎのような気がします。

そして急展開の結末は、何か深い意味が込められているようにも読めるのでとりあえず許しますが、この終わり方では単純に、妻のほうのおばあさんが不憫でなりません。それも含めて寓意を感じられると言われれば否定はできませんが、どうしてこうも毎回胸くそ悪い結末にばかりなるのでしょうか。「はい、あなた様のためなら、どんなことでもいたします」とまで言ってくれた妻を、どうして正直じいさんは完全に忘却して「おれには帰る家もない」などという台詞まで口にしてしまうのでしょうか。【その意味不明さが人間であり人生なのだ】ということを描いているということなのでしょうか。だとすれば、この作品はそこそこ傑作なのかもしれません。

最後の〔解説〕 は毎回ひどすぎますが、今回は途中で終わっていることもありますので、深くは触れないことにします。ただ、自分が作者なのに突然物語を終わらせて勝手に解説に突入し実在の他人が作者だったと捏造する癖はやめたほうがいいような気もします。

というわけで、将来的にはますます人間の仕事のうちの多くがロボットやAIに取って代わられるような話をよく聞きますが、文学の執筆はまだまだ人間がつとめる以外にないということがわかりました。勉強になりました。ありがとうございました。

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